暮らしの中での思い事をつづります


by carmdays
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

心の旅路~幸福と不幸の境目

 大学院を卒業後、就職した先で思いがけず人間関係の問題に悩み苦しんだ時期がある。
考え抜いた末に、わずか二年で退職したのが二〇〇四年のことだ。新しい人生が始まる夢を抱いて入社しただけに、キラキラと光り輝く未来への希望は見事に砕け散っていた。その時すでに年齢が三十歳。正社員の職を見つけることが至難の業になることは頭でわかっていたが、不幸な日々の中に身を置いて生きるより、辞めて新しい人生をスタートさせ、やり直したいと考えていた。だが、想像以上に現実は厳しいもので、世の中が不況という事もあり、結果、約七年間、派遣社員として転々と職場を移り変わりながら、正社員の職を得るための就職活動をすることになった。

その間、応募した仕事の数だけで言えば千を超えているかもしれない。総合職、事務職、大企業、中小企業、国際機関、NPO法人、個人事務所、ショップ店員。ありとあらゆる仕事に応募した。だが、その多くは書類審査で落ちることが多く、面接に辿りついても落とされた。手紙や電話で言い添えられる落選理由は、応募者多数のためであったり、経験不足、年齢での足きり、時に「大学院卒の女なんて、正直いらないんですよ。」と宣告された。

そんな日々の中で、当時、常々頭の中に浮かぶ一つの問いがあった。それは幸福と不幸の境目とは一体なんだろう、というものだ。例えば、不況下での就職活動はまるで椅子取りゲームで、限られた席をめぐって争奪戦が繰り広げられているかのようだった。その中で、無事に席を確保できる人と、そうでない人とでは、その幸福度の違いは歴然としてしまう。なぜなら、そのたった一つの仕事が決まるか決まらないかで、暮らしが作れるのか、暮らしを作れぬまま社会の底辺でさまよい生きていくことになるのか決まってしまうからだ。だからこそ、幸福と不幸の境目とは一体なんなのだろうという問いが、ずっと頭の中にあり続けた。

 学生時代、インドを旅してまわったことがある。混沌の世界が広がっていると言われていたインド。旅する前は、きっと、インドの人々の中に、生と死を見るのだろうと思っていた。だが、行ってみてそれは違うとわかった。街を歩けば、時折、道端に身体を横たえている人や、あばら骨が浮き出ている野良犬の姿を見た。確かに彼らの姿の中に生と死はあったが、今を生きているという一点でわたしと彼らは何ら変わりなかった。むしろ、わたしの中にこそ、生と死があることをはっきりと感じた旅になった。だから、幸福と不幸の境目も、きっと似たようなことが言えるのかもしれない。

 例えば、写真家の星野道夫はこう言っている。この花とあの花と、片方が引き抜かれ、片方がそのまま残る。なぜ片方が残り、なぜ片方が引き抜かれなければならなかったのか。世の中はなんて理不尽な事だろうと。幸福と不幸の境目とは、つまり、そういうことなのかもしれない。

 わたし自身の短い人生経験の中からの実感として言えば、幸福と不幸は表裏一体の紙一重だ。例えば、約七年間の就職活動の間、一年間だけ正社員で働くことができた時期があったが、リーマンショックですぐに解雇された。それは、やっと幸せを手に入れたと思った矢先に起きた「一寸先は闇」だった。そのことを実体験として感じた訳だが、「一寸先は幸福」だってあった。わたしはその出来事により、自分がどんな人間で、人生で何を求めているのか、無職時代のたっぷりとある時間の中で、じっくり考えざるを得なかった。だが、ひたすら問い続ける時間があったからこそ、その後長い歳月を経て、自分の求めが平和な暮らしにあることを自覚できるようになったり、のんびりとした自分の気質には人をサポートする仕事がとても性に合っていることもわかるようになっていた。そして今、確かに秘書として職場の人をサポートしながら穏やかに働くことができている。

人生万事、塞翁が馬だ。良いと思ったことが悪い結果につながっていて、悪いと思ったことが良いことに繋がっていく。だから、こう言えるのかもしれない。誰の中にも、幸福と不幸の種を宿しているのだと。

 顔で笑い、心で泣くという言葉があるが、一見すると笑顔で幸福そうにうかがえる人であっても、一つや二つは悲しいことや大変なことを抱えている場合だってある。それは表立って表現されえないだけで、誰もがそうかもしれない。また逆に、一見すると、とても大変そうな境遇に置かれているように思える人であっても、当の本人にとっては幸せな何かを得ている場合だってあるだろう。それは、人の価値観が千差万別のように、幸福や不幸の在り処さえも千差万別だというが言えるのだと思う。

 だが、一つはっきりと言えることがある。一見不幸と思われる出来事や人の姿からも、世の中の姿や自分の心のありようを見出せるならば、それは貴重な学びの機会となり、未来でその学びが必ず生きてくるということだ。

例えば、ある面接でこう言われたことがある。「あなた、本当に苦労してきたでしょう。」履歴書と職務経歴書をぱっと見ただけで、その人は一言そう言った。初めて「わたし」の人生背景を見てくれた人との出会いだった。積年の苦労と努力がその一言で報われ、それまで傷つくだけの心が救い上げられたと思ったことを、今でもはっきりと覚えている。その企業には結果的に落ちたのだが、その体験は、未来でいつか出会う、困難に直面している人に対して、とっておきの一言が言えるわたしになれる原体験になっていくかもしれない。

実は、こうして過去の就職活動にまつわるエピソードを綴っているのも、「苦しいのはあなただけじゃない。目には見えなくても、世の中には同じ悩みを抱えている人はたくさんいる。だから、一緒にがんばろう」と、今を生き闘う人々にエールを送りたいから。だからその点で、はたから見た人の不幸は、一人一人において、未来の幸福の種となっている場合だってあるのだ。

人生は先が長く、近視眼的に見たら幸福と不幸の境目はまったく見えてこない。でも長い展望で人生を遠くまで見渡せた時、わたしたちは初めて、手の内にある自分だけの幸福の種、そして何が自分を不幸にさせる要因になるのかさえ、気づくことができるようになれるのだろう。まこと、幸福と不幸の境目とは不可思議なもので、いまだにこれということを言えないでいる。


[PR]
by carmdays | 2015-05-27 07:50