暮らしの中での思い事をつづります


by carmdays
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心の旅路~当たり前の光景

先日、ワシントンで暮らす友人から一通のメールが届いた。彼女がお世話になった年配の女性が突然他界され、先日までとてもお元気そうだっただけに、とても驚いているという内容のものだった。友人は、その出来事を通して、毎日を大事に過ごさなくてはいけないと思ったという。そして、今のうちに大事な人には会っておくべきだとも。

 私たちは、いつ別れがやってくるかという事を言うことができない。その存在が消えてしまった時、初めて今までの当り前の光景がそうではなかったことや、その存在の尊さに気づく。消えてしまったものたちの存在に対する郷愁と共に。

 時折、家の外の通りに出て、目の前に広がっている光景全体を俯瞰して眺めることがある。五年後、十年後、二十年後。時が過ぎ、もし、そこから家族、隣家に住んでいる叔父・叔母、いつも挨拶する近所の方、そして可愛がっている猫たちが居なくなってしまったら。そんな想像をすると、そこにはもう会話できる人が誰もおらず、わたしがただ一人、ぽつんと立ちすくんでいる。知っている者たちの存在が跡形もなく消え失せ、たまらなく寂しい思いで胸がいっぱいになる。それだけで、もう景色は違って見えていた。

そんな起こりうる未来がまるで見えるかのようで、だからこそ、今わたしを取り囲む人たち、猫たちとの時間を大事にしようと自分を戒められる。それは、ともすると忘れてしまう、あらゆるものの生き時間が実は有限だということを気づかせてくれてものになっている。

 二〇一〇年のある夏の日のことだ。私はもう何年目かの無職の歳月を過ごしていて、お金がないものだから、ほぼ家に居た。だが、そればかりでは不健康だと思い、時折外に出て日光浴をした。

その日も午後四時を回り、夏の厳しい日差しが和らいできた頃合いを見計らって外に出た。すると、背後で家の玄関が開き、母が夕食の買い物に行ってくると出かけて行った。何をするでもない。ただ目の前に広がる通りは、いつもの光景と同じはずだった。だがその日、母の後ろ姿を見えなくなるまでずっと見送っていると、母が以前より少し痩せたことに気づいた。心なしか背中も前にかがみ、猫背になっている。ショートカットの襟足につづく首は、少しの衝撃でも折れてしまいそうなほど細かった。夕陽に照らされ、とことこと歩いていくその後ろ姿がとても弱々しく見えた。親の老い。母の後ろ姿に、それをはっきりと感じた瞬間だった。

いつもわたしの苦境を助けてくれる母は、仕事が決まらない愚痴や弱音を聞いてくれ、苦悩を笑い飛ばせと元気づけてくれた。いまだに独り立ちさえできないともがき、時をいたずらに浪費している一方で、時は母だけをどんどん未来へと連れ去っていた。その事に気づいたとき、残された時間は一体どれくらいなのか、あとどれだけ一緒に過ごせるのか、初めて考えた。

「日頃、当たり前の人がいる光景は、実は、当たり前なんかじゃない。だからこそ、今を大事にしなくてはいけない。」

多くの人はそう言うが、その実、実感としてわかっている人はどれだけいるのだろう。ましてや、そのことを思いめぐらし、自身の日常の中で意識できる人はどれだけいるのだろう。意思に関係なく流れ去っていく時の中で、私たちは日々生きている。その生き時間を意識することほど、過ぎ去っていくものの尊さ、消えゆく日常へのありがたみを胸に抱くことはない。

わたしは、いま目にしている地元の風景を記憶の中に焼き付けていきたいと思う。いま共に過ごしているものたちの表情の一つひとつまでをも、記憶の中にとどめていたいと思う。それは、いつかその存在が消える時が来たとき、きっとその思い出で、強く生きていけるから。


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by carmdays | 2015-05-27 08:06